十九綴

tsudzu-tsudzuri

劄記183

うーん、いくら正月でいろいろあるとはいえ、
流石に2件も記事を書かずにためておくのはどうかと思うんですよね。
でも更新日数は継続させたいし、箚記200回の件もあるし……
悩ましい!どうしよう!!
でも明日から実家を離れるので少しの間また安定しそうな気がします。
物は試しです!迷うならやってみよう。


そういうことで1/4現在、2件溜まっております。
いや、先日(1/3)の分を消化してきて、
その流れでこの記事を更新しにやってきました。
1/4の未更新の分も含めれば2件溜まってる、で間違いないですね。
さすがに1件ならまだしも2件溜めるのはダメです。学習しました。
物は試しです。ダメっぽいことを試してみてダメと学ぶのもよいことです。
そういうことなので?グダグダに初めていきます。




  【魚目混珠】ギョモクコンシュ
  魚の目玉と珠玉が入りまじる。
  本物と偽物とがいりまじってまぎらわしいたとえ。
     ―新漢語林より


面白い喩えですね。しかし魚の目玉と珠玉って間違えるか……?
そしてこれは割と身に覚えがありますね。
今はインターネットで色々な情報やサービスが得られる時代ですが、
情報が横溢するあまり、その取捨選択が難しいんですよね。
ちょっと調べごとをすれば出典や根拠が曖昧な情報が、
なんだかまことしやかに上の方に出てきたりするし、
Amazonなんかで商品を検索すれば、
リーズナブルでやたら評価が高くて、
なんだか日本語が怪しそうな商品とかが沢山出てきます。
後者の商品が必ずしも粗悪だったり偽物だったりするとも限りませんが、
いずれにせよ本物というか、良質な情報とは言いがたいと思えます。
旧・2ちゃんねるの元管理人、西村博之の有名な言葉があります。
「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」
もはやこの言葉もかなり風化してしまいましたね。
しかしもう暫く先の時代まで通用する言葉であると思います。
やはり全ての怪しげな情報が嘘とも限りませんが、
それなりの見識などをもってインターネットを利用しないと難しい時代です。



  【凹き所に水溜まる】くぼきところにみずたまる
  ①くぼんだ所に水が自然に溜まるように、
   招かずしてあらわれる物事の結果をいう。
  ②低い地位や苦しい境遇にある者には、種々の苦難が集まる。
   また、平生評判の悪い者は、何かあるとすぐそのしわざかと疑われる。
     ―広辞苑第六版より


①も②も面白いですが、その前に一点だけ。
「凹き所」と言っていますね。くぼき。
ということは「凹い」という形容詞があるんですね。あるようです。
くぼい。だいぶ俗っぽい言い方ですね。でもこういう慣用句もあるし…面白い!
①はまぁなんでしょう、当然の結果みたいな感じの意味でしょうか。
国民の収入が低迷している中で増税なんかしたら余計に金の回りが悪くなるとか。
これは凹んだところに水が溜まるというよりはむしろ、
出っ張ったところに水が溜まりにくくなったって感じですね。ハハハ
②もまぁなんというか…… あまり安易に面白いとは言いたくないですが、
面白いというかなんだか感じる所があります。よい。
苦しい時ってやっぱり色々な力がなくなりますから、
普段できていたことができなくなり、そこから弊害が生じ……
みたいなことに始まって色々な苦難が寄せ集まってきちゃうんですよね。
あるいは心が苦しいからそういう苦しいことばかり認識してしまうとか。
また、の先のやつは割と①にも近そうな意味を持ってますね。
どうせまたアイツの仕業だろう、疑われて当然だ、仕方がない。みたいな。
こういう教訓にせよ、という言葉ではないですが、
なんだか心にとどまって止まない言葉の響きがあります。
あれかな。私の心の窪地にいい感じに収まってくれたかな。



  【見弾求鴞炙】たまをみてキュウシャをもとむ
   弾を見て鴞炙を求む
  はじき弓のたまを見ただけで、ふくろうのあぶり肉を食べようと思う。
  早計なたとえ。〔荘子、斉物論〕
     ―新漢語林より


ふくろうのあぶり肉。今じゃなかなか珍しそうですね。
ジビエ料理でも出てこないんじゃないでしょうか。
それはそうとまぁ面白い喩えですね。
捕らぬ狸の皮算用とまぁ同義と言っていいでしょうかね。
狸よりはフクロウを捕まえる準備はまぁ…… できているのかな?
今はなんだかこうやって小馬鹿にしていますが、
我々だって似たような皮算用を無意識にしている時があることでしょう。
何か例示ができればいいのにな。こういう時にすぐ出てこない。
遠めの将来を設計することは別に悪くはないかと思いますが、
その設計が無謀だったり無計画だったりすると痛い目に遭ったり、
あるいは得るものも得られなくなるよって感じですね。



  【来経行く】き-へゆ・く
  《自四》年月が来て過ぎ去る。
     ―広辞苑第六版より


きへゆく。発音する時は "kiheyuku" なんでしょうけど、
どうもこう書かれると "kieyuku" と読みたくなりますね。
しかし「消える」は歴史的仮名遣いでも「消える」で、
「消へる」とは書きませんね。「消ゆ」って言いますし。
「消へる」が成立していたらかなり面白かったんですけどね。
来て、経て、行く、そして消えゆくようにどんどん過ぎ去る年月。
そういったオシャレな感じが出せて最高ですね。情緒。
今書いて思いましたが、来て経て行くってだけでもけっこう過ぎ去った感ありますね。
これはこれでオシャレかもしれない。言葉は感じようですね。




溜めた割にけっこう書けました。なんだよ。
しかし、こうやって味を占めてしまってはいけません。
切羽詰まった時になんとかなってしまう経験をすると、
「あ、意外と俺ってなんとかなるじゃん!」となってしまい、
結局懲りずにこの失敗をズルズルと引きずることになります。
それだけはよくない。避けたい。なんとしてでも。
そういうことなので2日分の記事を溜めるのはもちろんのこと、
1日でもできるだけ溜めたくはないものです。やれやれ。
これで溜まっていた 1/2 と 1/3 の分が消化されました。
あとは 1/4 の分です。つまり本当の「今日」の分です。
なんだこの後書き。締まりがないな。まあいいか。また次回。