十九綴

tsudzu-tsudzuri

劄記109

どうも、十九です。
昨日は大きな仕事が終わったし、朝もスッキリ起きられたし、
おいしいご飯をたべて、たいせつな人と会えて、
今日はとっても幸せでございました。超ハッピー。
ですが、突如として悲しく惨い報せも飛び込んできましたね。
京都アニメーションの第一スタジオに放火、
25名ほどの死亡が確認されたんでしたっけ。
かの地下鉄サリン事件の死亡者が13人らしいので、
その数だけで見れば日本最大級のテロリズムになってしまいますね。
日本に限らず世界各国からもこれを悼む声が上がっているようです。
色々と思うところはありますが、深追いはしません。
私があれこれ逡巡して助力できるようなことでもないし、
そういった遠くの憂いばかりを気にして、
自分の手の届く範囲にある憂いを無視する方が心が痛みます。
もちろん、こういった事件が起きてしまうことはとても心苦しいです。
でも、それにばかり気を取られても仕方がないのもまた事実だと思います。
私がどうこう言うより参考になる記事があるので、ご参照ください。
karapaia.com
遠くの火事、背中の灸 という言葉があります。
まさに火事にまつわる話になってしまいましたが……
自分に関係のない大事よりも、自分に関係した小事の方が多く心を悩ます、
という意味です。これが大切という訳ではないですが、
これもまた事実であると感じています。
今は大変な騒動として憂える声が多く上がりますが、
しばらくすればそれも忘れ去られたかのようにおさまるんじゃないかと、
そう思ってしまってやみません。悲しいですが。
本当にそうなるかは分からない。
ニュースやらTwitterやらで取り沙汰されなくなっただけで、
多くの人が実際に支え続けているのかもしれない。
深追いしないと言いつつ深追いしてしまっていますね。やめましょう。
私には私にいまできることをします。
近くにある憂いに向き合い、やさしさを繋げるのです。
それならば、私にもできる。そうして、少しずつ世界はやさしくなると信じて。
劄記していきましょう。



  【殃慶】オウケイ
  わざわいとよろこび。
     ―広辞苑第六版より


文字通りです。殃はわざわい、慶はよろこびです。
世界のいろいろなところで災いが起こり、幸いも起きます。
そしてその規模もまちまちです。人によって感じ方も違うでしょう。
そこに善悪はないんじゃないかと思います。
人によってどう感じるか、ただそれだけであって、
善悪とか優劣はひとつに定まらないと感じます。
私は私であって、あなたはあなたである。
でも私にとってあなたは完全な他人ではなく、
敬意や親愛をもって接するべき人でもあると思います。
そういった分別をつけてやさしさを振りまきたい。



  【一薫一蕕】イックンイチユウ
  一つのよいかおりの草と、一つのわるいにおいの草。
  この二つの草を一緒におくと、よいかおりは消されて悪臭のみが残る。
  とかく善よりも悪の方が強く、はびこりやすいたとえ。〔左伝、僖公四〕
     ―新漢語林より


とても身に沁みて感じることであります。
とりわけ悪事の方が力を持ちやすいし、
ニュースなどでも特に取り沙汰されやすい印象です。
正直者が馬鹿を見るというのとも似ていますね。
そうであったとしても、私はできるだけ多くの人にやさしくありたいし、
素直で正直に生きたいです。というか嘘つけないです。
いわゆる世間一般的に「よいこと」をしたつもりでも、
それに何の礼も言われなかったり、気づいてもらえなかったり、
時に仇で返されたりすることだってあるでしょう。
そうだとしても、私はやさしくありたい。
なぜなら、それをする人が少ないと感じるから。
そうやって意外に苦労して人に親切にした割には、
それに見合うよろこびなどを得られなかったり、
色々と面倒な人間関係を保ち続ける必要もあったり、
なにかと手を出しづらい理由も少なくないと思います。
だからこそ、私はやさしくするのです。
誰もやらないなら、それに気づいた私がやろうと。
そう思うことが非常に多いです。いつからかな。けっこう昔からかな。
そうやって色んな人がすこしずつやさしくなったらいいな。



  【誰か烏の雌雄を知らん】だれかからすのシユウをしらん
   [詩経(小雅、正月)]烏の雌と雄が判別しにくいように、
  人の心や言説。人物の善悪優劣の判定しにくいことにいう。
     ―広辞苑第六版より


正誤とか善悪とか、そういうものがハッキリ判断できるものばかりではないです。
一般には悪とされる行為の中にもある程度の正当さがあることもあるし、
その逆もまた然りだと思います。どこかを割り切ることが多い。
だから、そういう二極化をできるだけ避けるために、
私は適不適で考えるようにしています。この方が争いを生みにくいと思う。
「正しい」よりは「適切である」の方がやわらかいニュアンスであるし、
全肯定や全否定のような隔絶感もかなり和らぐと思います。
そしてやはり「欠点などもあるがそれを加味して適切」という意思表示ができる。
そういった諍いを生みにくいような表現がもっと使える人が増えてほしいな。
それとやはり、そういった諍いを起こさないような心の余裕とかも。



  【己欲達而達人】おのれタッせんとほっしてひとをタッす
   己達せんと欲して人を達す
  自分が達したいと願うなら、他人もそうであろうと推量して、
  達成させてやるように力添えする。
  達は、栄達など、自分の志望を遂げること。
     ―新漢語林より


これは劄記86でも紹介したことがありますが、改めて。
自分にしてほしいことがあるなら、それを人にしてやろうって感じ。
そういうやさしさが、今の日本にはもっと要る気がします。
でも日本人にはそういった余裕が乏しいようにも思う。
というより、余裕がないからそうやって消極化してしまうのでしょう。
私だって余裕があってやさしくしようとしている訳でもありません。
でも、私はやさしくされたい。親切にされたい。愛されたい。支えられたい。
そう思っているから、人を支えるのです。
見返りを求めている訳ではないですが、まずそうやって自分から動かないと、
物事は始まらないと感じています。気づいた自分が動くのだと。
どんなに小さなやさしさでもいいのです。小さなことからでいい。
ゴミを拾って捨てるだとか、店員さんにありがとうと言ってみるとか、
そういうことでいい。どんなに些細でもいい。
むしろ、そういった些細なやさしさを多くの人が行うことによって、
少しずつ、ほんの少しずつ世の中はよくなると思う。
特に根拠とか確証はないけれど、そう思う。説得力ないね。




なんだか妙に意気込んだ文章になってしまった。
でも、こういうことは割とよく思っています。
みんなもっとやさしく、心に余裕をもてたらいいなと。
何度もいいますが、そう思うから私はやさしさを捨てたくない。
自分にも、他人にも、その場に適したやさしさを振りまきたい。
無闇な親切心も、時にはただの迷惑になります。
場合によってやさしさの幅を変えなければならないというのも、
また手を出しがたい要因のひとつでしょう。
物わかりのいい人ばかりでないのもそうであるし。
それでも私はきっと諦めない。世の中が、もっとよく治まりますように。
そういうことで、また次回。