十九綴

tsudzu-tsudzuri

劄記5

十九です。

今日はあまり元気がないですが気を紛らわすためにブログ書きます。

私が私であるために…みたいな。

 

あとなんかブログのアクセス数が100を超えたっぽいです。

そんなに見られてるとは思いませんでした…ありがとうございます。

この調子で訳のわからないことを書き連ねていきますのでよろしくお願いします。

 

どうでもいいけど、楽天カードマンの掛け声が以前は

楽天カードマーーーン!」だったのが、最近は

「ゥゥ楽天カードマーーーン!」みたいになってるのに気づきました。

 

 

  【頤指・頤使】イシ

   あごで指図して人を使うこと。人を軽んじて使うこと。

    ―広辞苑第六版より

 

「頤」は「おとがい」と読み、あごのことを指します。

なので文字通り頤で指図することのようです。わかりやすい。

そういう人には是非ともなりたくないものですね。

というか人に指図するのがとても苦手なので頤指とかできたものではないですが。

 

 

  【清狂】セイキョウ

   ①精神に異常をきたしていないで、

    言行が狂気の人に似ていること。また、その人。

   ②俗人ばなれをしていて、ほしいままに言動すること。また、その人。

     ―新漢語林より

 

ちょっとそんな人を目指している。既にそういう部分もあるかもしれない。

普通の人にはなりたくない一心で生きてきたので。

オールマイティな人間になりたかったけど、それは無理だとある日気がついたので、

攻撃はクッソ高いけど防御はクッソ低いみたいなキャラクターに成り果せました。

それはそうと清く狂うってなんかすごい形容ですね。すごいとしか言えませんが。

そういう「すごい」に包括されてしまう語彙のことを「す語彙」と呼んでいます。

使う機会がそんなにないですが。使ってください。

 

 

  【目見毫末不見其睫】めはゴウマツをみるもそのショウをみず

   目は毫末を見るも其の睫を見ず

   目は細い毛の端まで見ることができるが、自分のまつ毛を見ることができない。

   他人のことはよく目につくが、自分のことには気づかないというたとえ。

     ―新漢語林より

 

言わんとすることは分かるが、自分はそれの逆なので困っているところである。

他人のことを全然覚えていられない。良いところも悪いところもすぐ忘れてしまう。

自分ばかりが尊大で、自分さえよければいいという精神が根柢にあるのを薄ら感じる。

他人に興味がないというやつだろう。その癖して自分は認めて貰いたいのだ。

自分勝手とか失礼とかそういう範疇ではないだろう。少しずつ直していきたい。

 

 

  【学歩於邯鄲】ホをカンタンにまなぶ

   歩を邯鄲に学ぶ

   自分の固有のものを捨てて他の行為を習うと、両方とも失うこと。

   燕の少年が、人々の歩き方がうまいといわれた趙の都邯鄲(今の河北省内)

   に行って、その歩き方をまねたところ、それを学ぶこともできず、

   もとの歩き方も忘れて、腹ばいになって帰ったという話。〔荘子、秋水〕

     ―新漢語林より

 

身に覚えがあるようなないような。話のオチもだいぶ気になる。

自分は自分で、他人は他人である。比較するのは別に構わないが、

あまり比較しすぎて自他の境界線を見失うのはよくない。

特に自分は生活などにおける辛さを比べるのはナンセンスだと甚だ感じる。

辛さを感じる原因、程度、そこからの解決策等、要因があまりに異なりすぎるから。

話が逸れたが、自分は自分でいいのだろう。

そこから人を真似て、自分を変えすぎるのも考え物だろう。

前述の私の性質も、あまり手を加えすぎずに直せたらいいだろう。

 

 

  【笑い癪】わらいジャク

   (あまりに笑って腹筋が痛くなるからいう)

   笑いがどうしても止められないこと。

     ―広辞苑第六版より

 

今にいう腹筋崩壊だろうか。「癪」は「癇癪」とか「癪に障る」とかで使うが、

腹が立つ意の他に胸部や腹部の激痛のことを言うらしい。

笑うことによる腹部の痛み、笑い癪。なんか素敵な物言いだ。今度使おう。

 

 

自分語りが若干多めになってしまった。気が鬱いでいるので仕方がない。

そういう時に気を紛らわす物が、現実からの逃避先が多ければいいのだが、

どうも逃げ道をあまり確保できていないのが辛い。

逃げ道が多くてもその質が悪いのも考え物だが、とりあえず道があるだけいい。

逃げ道、ひいては迂路を拓こう。どこかへ消えてしまわないように。